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FOTOLOGUE/フォトローグ
 
  FOTOLOGUE東京 10/12
 
雑感その1.「カルチャーサロン」その2.「フォトジェニック」
その3.「写真の受容」その4.「私批評」

  ジョニー
雑感その1.「カルチャーサロン」
都内の銭湯で某写真家の写真展があった。銭湯の中はカルチャースクールで写真を 勉強してます、といった感じのオジサンやオバサンでごった返している。一眼レフカメラを首から下げて洋服を着たままのスガタで建物の縁側といわず脱衣所といわずひしめいているのだ。
ここは銭湯なので入浴料金の四百円ナリを払ってから見学しなければいけないのだか、どうみても場違いな格好のヒトたちのあいだをすり抜けるようにして地元のアンチャンやオッチャンが洗面器にタオルやせっけんなんかを入れて当たり前に風呂に入りに来るのはこの場所がこういったイベントに頻繁に使用されているという証拠なのだろう。
あんまり当たり前ではない状況で当たり前のように行なわれているこの写真展は、それでもどこにでもあるフツーの東京の下町が写っている。「面白くも珍しくもない風景もこうやって撮れば写真になるのねえ」、というカルチャースクールオバサンの感想とも嘆息ともつかない声をわたしは聞き逃さなかった。 「それはどうでしょうかねえ」、と云いたかったけれど一所懸命に写真を見ている彼女の横顔に下手なツッコミは入れられそうもなかった。
雑感その2.「フォトジェニック」
瀬戸さんの「夜の写真学校」でのことである。生徒のひとりがプレイスMで個展を 開催中なのでその日は彼女の話を聞くところから始まった。ガーリーな写真と案内文にあるのを瀬戸さんが見咎めて、「彼女の写真がガーリーな写真だと思うひと、手を挙げて。」よく彼はそうやってみんなの意見を聞きたがるのだ。みんなの意見では彼女の写真はガーリー・フォトではないことに。ここではガーリーな写真、というのは褒め言葉にはならないようだ。  
瀬戸さんがふたたび生徒全員に短い感想を求める。すき、とかやさしい感じがするという好意的な意見がおおくてなかなか評判がイイ。その中のひとりが「フォトジェニックでわたしは好きです。」といったとたん、瀬戸さんはすかさず「そのフォトジェニックという言葉は褒め言葉じゃないからね。」。そう、ここではガーリーな写真やフォトジェニックはほめことばではないのだ。たぶん「決定的瞬間」も「歴史の目撃」も褒め言葉ではないだろう。もちろん「コンテンポラリーな」という言葉もネ。
雑感その3.「写真の受容」
日本では長いあいだヒマつぶしの種として続いていた物語や和歌や俳句が西洋の血を吸って「文学」と云う名前でみんなに受け入れられるようになって随分と時間がたつ。いつの間にか文学の解体などと云われるようにもなった。
解体と云われるほどのモノが日本で育ったかどうかは別としても、文豪と云われる小説家の作品は今はもうほとんど讀まれることはない。試しにあなたに聞くが「谷崎潤一郎」の作品をなにかよんだことがあるだろうか、あるいは「芥川龍之介」の作品はどうだろう。
それでも新しい小説は産みだされつづけて、いったいどのくらいの数の小説が日々世に出ているのだろう。まったく見当がつかない。月に五十、百あるいはもっと?
話は写真に関しても同様で、写真が芸術或いはアートとして受容されるようになって、いまでは1日に幾千もの写真がヒトの目に晒されつづけている。写真も文学と同じように「受容」から「解体」へのみちを歩んでいるのだろうか。それにはまず写真が「受容」されたということを前提にしなければならないが。  
雑感その4.「私批評」
「私小説」ならぬ「私批評」なる言葉がはやったことがあったらしい。小林秀雄の評論などがその「私批評」の代表のように云われていたが、戦後日本の小説がひとしく私小説になってしまってからは、評論を敢えて私評論とは呼ばなくなってしまった。
そのときからまた随分と時間がたったが、テレビ世代がカラーテレビしか知らないように、わたしは評論といえば「私評論」しか知らない時期があった。日本の「私批評」とはまったく異なる視点の外国の評論を讀むまで評論のようなものにも文学と同じように文化によるちがいがあるなどということすら考えたことがなかったのだ。
たとえばそれが正しいかどうかは別としても、マルクス主義的な視点からの文芸批評や構造主義的なそれからの文学への指摘などには日本的な「私評論」にはない力強さを感じたものだった。
まあ、この歳になるとそのようなある種の生々しい主義を支えにしての見方はかえって制約的に働いて、本当の感じかたを言い表わせるかどうかわからない、などという愚問にも近い反省をしてみたりもするが。
夏目漱石が其の作品「門」の中で「積極的に人世観を作り易へなければならなかった。 其人世観は、口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。」と宗助に謂わせているように、一旦は西洋的
な視点を受け入れたかのように思えたわたし自身も、さいきんは宗助謂うところの 「心の実(じつ)」なるもののような極めて日本的なるものに回帰しているような気がする。
写真を見ることもなんだかそのようなことに似ている。