Copyrighted by
© TPO co.,ltd
All Rights Reserved.
FOTOLOGUE/フォトローグ
 
  FOTOLOGUE東京  9/5
 
  「デジグラフィ」、気がつけばデジタル社会へ
 
  ジョニー
 
HHDがダメになって保存しておいたデジタル・カメラの画像データがまるまる無くなってしまった。買ったばかりのDVDレコーダに保存しようかと思った矢先の出来事だったので悔しさもあるけれど、まあそんなものかという程度のことでもある。
そこで思い出したのが美術手帖6月号で飯沢耕太郎氏と土屋誠一氏の対談。飯沢氏の著書「デジグラフィ デジタルは写真を殺すのか?」で取りあげていたデジタルの5つの要素「改変性」「現認性」「蓄積性」「相互通信性」「消去性」のうちの「消去性」についての議論である。要約すれば飯沢氏の「消去性」に対して土屋氏は「遍在性」つまりは「消し去れなさ」があるということのようだ。くわしいことは美術手帖6月号をお読みいただくか、土屋氏のウェッブ・サイトで確認していただきたい。
双方ともにうなずけるところがあるので態度保留だったのだがこのHHDの一件でにわかに飯沢氏の意見に傾いてしまった。わたしの場合はコンピュータのハードディスクのなかでだけの事件なので、話はそこでおしまいである。
しかしである、消えてしまったデジタル・カメラの画像のなかにはフォトローグの原稿用にと撮影したものもあるとなると少しはなしが変わってくる。それらの画像、たとえば最初に買ったライカであるM4−Pの画像などは、現物のM4−Pがすでに なくなってしまったものだから(話せば長いことなのだが今はそのことはちょっと置いといて)今やわたしの記憶のなかにしかない。
その画像はサーバーのHHDのどこかにあるのだろうが、それがどこであるとはっきりとは分からない。とはいってもマウスを幾度かクリックすればいつでもM4−Pの写真を見ることができる。それはまさに「遍在性」にほかならない。わたしのM4−Pの画像は「わたし」にとっては「消去性」的でもあるし「遍在性」的でもアルという相反するふたつの意味を持ったことになる。わたしがすでに所持していない画像がわたしの知らないところにちゃんと存在するということはまさに「遍在性」の為せるわざなのだが、それでは「わたしの記憶」のなかのM4−Pのイメージと「遍在」するM4−Pの画像とは同じものなのだろうか。
いやいや、急がずに考えてみなければならない。まずわたしの記憶のなかのそれと 画像とはおなじではない。それはたしかだ。20年来愛用しつづけていたそれの隅からすみまで、写真には写らない巻き上げレバーの感触やシャッター音などはM4−Pの画像では誰にも伝えることはできない。ソレはわたしの「記憶」のなかだけにあるものである。
ところでわたしがかつてM4−Pを持っていたことを誰かに伝えようと思ったならばそのひとにフォトローグの画像を見せればいいのである。わたしがどんなに説明しても納得できないひともM4−Pの画像を見せれば納得してくれるだろう。そのひと にとってM4−Pの画像はまさに事実のように機能する。
事実そのものではないがそういった機能を持っているということは、「遍在する画像」にも幾許かの真実が内在するということなのかも知れない。このように「わたしの記憶」と「遍在する画像」とは少しずれて曖昧な関係ををつくっているようだ。「わたしの記憶」と「遍在する画像」とはべつべつの次元で機能しているといっても いいのかもしれない。
それではわたしのHHDのなかに収納されていたM4−Pの写真は「遍在する画像」とはたして同じものなのだろうか。もちろん物理的な意味では同じである。しかし、それはどこかに複製されないかぎり特別な存在であるが、ひとたび何処かに複製されるともう特別なものではなくなってしまう。デジタルデータはおかれる場所によって 意味が変わってくるのだろう。デジタル写真というものは一般には「遍在性」を内在しながらもその生まれ立ての状態では「消去性」という危うさを持っている、折衷的な理解だがそんなふうに考えている。
ウェッブサイトに書いたりブログを設置したりすることはより積極的にインターネッ トの大海に関わることである。そこには文章、写真、音楽、動画などいわゆるマルチメディアといわれるあらゆるものが存在している。そうなると写真でも文章でもはた また音楽でも動画でも「遍在性」ということに関しては同等であるということになりはしないか。「遍在性」はなにも写真だけの特性ではない。それは「消去性」にもいえることでこれらの特性はひとえにコンピュータ社会の持っている性格そのものだろ う。
であるとすれば「遍在性」や「消去性」をデジタル写真だけの特徴として論じることにはあまり意味がなくなってしまう。先に飯沢氏が挙げたデジタル写真の5つの要素はつまるところコンピュータ社会の要素そのものに他ならないのだ。 社会から写真だけを取り出して論じるということが不可能であるように、デジタル写真を論じる際にも社会からデジタル写真のみを取り出して論じることができない。飯沢氏の「デジグラフィ デジタルは写真を殺すのか?」で大事なのはこのことではないか。
デジタル写真とは?と問うことは今このデジタル化した社会とは?と問うことと同じなのだ。社会がデジタルでどう変わったか、あるいは変わっていないのか、変わっ たのならば何がどう変わったのかという問いは日曜写真家(ナイーフ・フォトグラフ ァー)のわたしにはあまりにも壮大すぎてしまいます。

飯沢耕太郎『デジグラフィ─デジタルは写真を殺すのか?』
中央公論新社 ISBNコード 4-12-003488-7  1775円
美術手帖6月号 美術出版社   1600円
土屋誠一「試評」  http://www.pg-web.net/off/tsuchiya/003/01main01.html