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FOTOLOGUE/フォトローグ
 
  FOTOLOGUE東京9/12
 
syn・chro・nous
  ジョニー
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デジタル・カメラを買って2週間、撮ってはセッセとiBookに落としていると、いくらでも撮れてしまいます。なんとあっという間にその数は1500枚になろうとしています。ただこの場合その映像は「写真」というよりもっと日常的な映像のようなものです。忘れ去られてしまう日々の状況、とでもいうのでしょうか。「写真」というよりももう少しサラウンディングな感じです。
いつもだとプリミティブな機械式の写真機で、深呼吸をするようにシャッターを押すのですがデジタル・カメラの場合、事はもっと日常的な行為です。呼吸にたとえるならば、寝ている時に夢を見ている時にするようなものです。
えっ、例えになっていない、ですって。ほら、ちょっと不思議な感じのするあの感じですよ。内容は全く覚えていないのに目が覚めた時やたらリアルに、ある感覚だけが残っている時とか、夢を見たことだけは覚えている夢見の体験とか、考える前の状態というか。
そういったものを想起させるんですよね、撮りためたデジタル・カメラの映像って。はっきりと自分でとったかどうかもわからない(ひょっとして他人の映像が紛れ込んでいてもわからない)あまりに数が多いのですべてを自覚できないで撮影された膨大な映像、そのなかの一枚(それがわたしのではなくとも)を取り出した時に、見たことがあるような気がするこのア・プリオリな了解というのはふしぎなものです。
そういったものはいわゆる「写真」でも感じるものなのですが、それは極めて良質の写真にのみ起こることじゃないかと思います。あるいは驚くほど多量にばらまかれ個性を失うほどに氾濫しているコマーシャルのイメージのようなものとか。でも厳密にいえばそれはア・プリオリというようなものではなく、すり込みによる疑似感覚のようなものなのでしょうからね。わたしの云っているものはもう少し厳密な意味でのア・プリオリさ、人類共通の体験の遺伝的記憶とでもいうのでしょうか、そういったものです。
そのような共通の記憶のナニカのように、見るまでは思い出さないけれど見てしまうと深い記憶の底から這い上がってきて、なんとなく思い出したと云う気持ちになってしまうような感覚。撮りためたデジタルの映像からは、ついそんな想像をしてしまいます。
確かにわたしが撮ったことを覚えていない、でも見ると思い出したような気になってしまう、ひょっとしてそれが他人のデジタル・カメラの映像でも。
こんなところから人類の記憶の共有と云うのは始まるのかな、とハードディスクの中に氾濫するデジタル映像のファイルを見ながら、ユングが幼少のころ夢で見たという「ファロス」のイメージと集団の無意識性の共有というエピソードを思い出しました。