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FOTOLOGUE/フォトローグ
 
  FOTOLOGUE東京 12/3
 
梅安散歩(その一)
   
ジョニー
 
 家人はこの夏の終わりころから池波正太郎の「藤枝梅安」シリーズに凝っている。最近これを読み終えると「梅安」巡りをしようといい出した。何かと問えば梅安の住んでいた品川の雉子の宮あたりから「池波正太郎記念文庫」のある入谷をゴールにして東京のあちこちを見て回ろうという魂胆らしい。まあいいだろう,どうせコースを考えたりするのはわたしの役目に決まっているのである。

 梅安をつけねらう同業者、鵜ノ森の伊三蔵が境内の木立の間から梅安の住まいの様子をうかがってたという「雉子の宮」神社はいまでもそこに建っている。もちろんヤケに近代的になっていて鳥居があったからこそ場所の分かったものの神社は大きなビルに囲まれてというよりは飲み込まれたようなかたちで坂の途中にある。ここからやや東南の方向に梅安の住まいはあったようだ(なんと言うことはない最後に寄った「池波正太郎記念文庫」には梅安宅と雉子の宮の位置関係を示した池波正太郎自筆のスケッチがあったのだ)。いまはビルに阻まれてその方向を望むことは出来ないがこの神社の裏には別当の宝塔寺の墓所がひろがっていて坂道の途中からならばその方角を見下ろすことが出来る。江戸切絵圖によればこの雉子の宮から梅安の住まいがあったという方角にはずっと田圃が広がっていたらしい。ところどころには百姓家などもあったに違いない。ああ、あの方角に小川があってその向こうに梅安の住まいはあったんだなと家人と二人で笑いあう。
 梅安の活躍した江戸中期になると江戸の街もずいぶんと整ってきたのだろう。参考に持って出た「江戸切絵圖」にある道筋もずいぶんと今に残っている。現にこの「雉子の宮」のある桜田通りの上り坂を挟んだ向かいにはその頃の切絵圖どうりの場所に了真寺が建っている。が,しかしそのスタイルは白亜のチャペルとも見紛う現代的なものになってしまってはいるが。

 当時,品川台とよばれていたここから品川の駅までは直線で1キロほどである。早足で緩やかな坂道を品川プリンスホテルの方に下るように歩けば十二、三分もあれば着いてしまう。あの頃だったらそうやってたどりついた品川駅のJRの線路の向こうはもう海だったのだ。その道を品川の駅まで出てもよかったのだけれども、ここから泉岳寺に向かうことにする。それでも二キロも歩けば着いてしまうのだ。途中にはあの有名な高輪消防署の火の見やぐらもあるのでそれを家人に見せたいともおもったのだ。泉岳寺までの道のりを切絵圖の頃の道に沿ってどこまで行けるものなのかというのもすこし興味があったし切絵圖のそこここにある寺もすこしは残っているかもしれないという期待もあった。実際のところ道筋は意外にほど江戸のなごりが残っていて桜田通りを清泉女子大学に向かってくの字に折れていく道筋や東武ホテルの裏側の路の鈎型に曲がっているところなどは切絵図そのままであった。

  当たり前ながら泉岳寺は切絵図のとおりの場所にあったが寺々に囲まれていたはずのその周辺は近代的な住宅と学校とに変身していた。ビルのあいだに取り残されたような真円寺と五代目将軍綱吉の「生類あわれみの令」に触れて三宅島に島流しにあってしまった画家でもあり太鼓持ちでもあったという「英一蝶」の墓のある承教寺とが確認できただけなのはすこし寂しい。ほぼひと月早い十一月の十二日、泉岳寺はあの血なまぐさい話とは関係のないかのようにおだやかな春のような暖かい日差しが当たっている。それでも四十七士の墓をちょっと見物。半纏を着た男の人がふたりで火のついた線香を百円で売っている。当日は夜中までお参りのひとが絶えないという。

 泉岳寺を出てぐるっと回るようにして伊皿子(いさらご)坂をのぼりつめたら左へ回り込むと松平家の屋敷跡。このあたりではいちばん高いところでここからは桜田通りが眼下に見渡せる(もちろんビルのあいだ間ということだが)。おおきな楠が一本だけ残っている。
  ここから真っ直ぐに階段を下っていくと地下鉄南北線の白金高輪の駅である。そこからすこし南に歩けば目黒通りと桜田通りのやや斜めの三角形に交わったところに清政公の祀られている「覚林寺」がある。これで品川台をほぼぐるっと回ったことになる。
 さて,つぎの目的地は本郷である。お茶の水の順天堂大学の裏手に「東京都水道歴史館」がある。なぜ水道の歴史かと云えばここは江戸時代に作られた江戸上水や玉川上水、神田上水などの歴史がわかるのみで はなく発掘された上水井戸やそれに用いられた本物の[木樋もくひ(木製の水道管)]などが展示されているのだ。上水井戸というのはいわば公共上水道だ。これがピーク時には江戸の街に縦横に張り巡らされていた。地下に埋設された木製の継ぎ手や木樋の作りの精巧さには驚かされる。これを見れば当時の人々ががいかに江戸のまちを近代都市として作り上げようとしていたかがわかるというものである。隣接するの公園には当時の神田上水で用いられていた石樋(せきひ)が移設されいまでも滾々と水が流れている。江戸の長屋を再現したらしい一角があったり上水の縮尺模型もある。そのなかにはお茶の水駅近くの神田川を跨ぐように架けられた神田上水の[懸樋かけひ](水道きょう)などもあって神
田川の懸樋の傍らに建つ茶店のような建物には「もりやま」とのれんが掛っている。ここで梅安を読んでいれば「ああ,これはあのうなぎやだな」とわかる仕組みになっている。この制作担当者の中には池波正太郎のファンがいたのかもしれない。
  ここから神田明神は目と鼻の先である。湯島聖堂つまりは昌平坂学問所を右に見ながら坂の途中を左に入ると神田明神である。浅草生まれの浅草育ちだった母に云わせれば神田明神は 「ずいぶん狭くなって」しまったようだがそればかりでなくしばらく見ないうちにすっかりきれいになってしまいなんだか興ざめだがここを裏に抜けて妻恋坂に下
る裏参道の階段を下りてから振り返ればここにはすこしは往時の面影がありそうである。ここに抜ける神田明神の境内には「銭形平次」の碑がある。おっと、これはちがう作者の作品であった。この坂をそのまま下りきれば秋葉原の一番端っこ、地下鉄の駅で云えば銀座線の末広町の駅である。この辺りには京の元締め「白子屋」と梅安たちが死闘を演じた山城屋という旅館があったはずである。
 浅草のほうに駅三つほど、田原町で下車して目の前の合羽橋を突っ切れば最後の目的地である「池波正太郎記念文庫」のある台東区立図書館なども入っている生涯学習センターに出る。「池波正太郎記念文庫」には池波正太郎の出版されたすべての著書があるだけでなく彼の書斎が再現されていたり池波正太郎が集めて資料としても使用していたという江戸時代の文献なども展示されている。池波正太郎は絵も得意であったようで梅安の姿を描いたものもある。映画評論もしていたと云う池波正太郎がかつて出会った海外の映画スターや監督などを描いたポンチ絵風の スケッチもなかなか泣かせる。そういった絵の中になかに浴衣を着た鱸の絵があった。これはいいな、とおもったら入り口でこれを図案化したTシャツを売っていたのには参った。あやうく買ってしまうところであった。
  最後の〆に入谷の鬼子母神も見て行こうということになった。建物を出たところを鴬谷の駅に向かって五百メートルも行けば目的の鬼子母神である。朝顔市などがあるころはそれなりににぎわっているが秋の夕暮れ迫る境内は閑散として寂しい。人気のない境内で線香をあげたらこの日の日程はこれでお終いである。帰路につくなり「小野照崎神社」までいって小杉十五郎の住んでいたところが見たかっただの彦次郎の住まいのあった汐入土手(いまの汐入公園あたり)に行きたかった,橋場の「井筒」にも行ってみたかっただのとうるさい。リベンジと称してこんどは品川から彦次郎の住まいのあった南千住まですべて歩こうと言い出している。およそ四里半である。