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FOTOLOGUE/フォトローグ
 
  FOTOLOGUE東京  4/15
 
 齋藤美奈子「文学的商品学」って文学は商品なのか、では写真は?
 
  ジョニー
 
「文学的商品学」とはいっても「商品」を「文学」的に考察するって云うことではなくて「文学」のなかの「商品学」ってことのようだったみたいで、ところでこの「・ ・的」っていう漢字を「〜の」っていう中国語本来の意味に使うっていうのは最近の 流行りなんでしょうかね、ときどき見かけます。まあ昔っからつかっている人は使ってたようですけど。
「文学」ってものがはたして商品なのかってツッコミもあるでしょうがこの著者は そうだと。小説というのも消費されちゃうものといいたげですがここではもう少しひ かえ目に小説にでてくる商品に着目してそれを俎上にのせて文学を料理してしまおうという魂胆のようです。だから「商品」の出てくる小説はでてきても「商品」の出て きにくい詩も俳句も短歌も出てきませんし評論文学もでてきません。いやひょっとしてほかのところで書いているのかも知れませんが其処のところはわかりません、ゴメンナサイ。
著者の視点は女性らしく(ジェンダー差別じゃないですョ)細かなところたとえば「野球小説は人生劇場である」とか「ファッション音痴の風俗小説」とか「カタログ小説はわかったような気分にさせることがガンモクであり物語はそのための装置」とまで言い切っています、なるほどね。
話は変わって写真家の瀬戸正人さんにニューヨークにいった時の話を聞きいたときのこと、もちろん瀬戸さんは写真家なのでニューヨークの写真ギャラリーをガイドブック片手に見てまわったそうです。そこでの感想といえば「写真が大きい」ですって。1メートルくらいは当たり前でなかには数メートルっていうのもあるというはなし。8×10の大判カラーフィルムでかっちりとって馬鹿でかく引き伸ばした風景写真、そんなのが人気だそうです。写真の値段もン十万円はざらというその作品のレベルはといえば???というそんな作品を中年の夫婦なんかが買い物ついでに買っていくというまさにアメリカでは写真が商品(消費財)化しているというわけです。まあ写真の商品化いわゆる値付けや格付けを最初にはじめたのはアメリカのギャラリーだそうですからその市場規模もしっかりあるよ、というわけでしょうね。
で考えるんですが「写真」は「商品」かってことです。「商品」的「写真」といえばまず頭に浮かぶのはもちろん写真集ですがいまの日本で出回っている写真集の多くはあっという間にすり減っていくなんとかクイーンやアイドルの写真集ばかりですし、残された数少ない純文学系?「写真集」なるものがこれまたどんなものかは知らない人はまったく知らないというのでは、「商品」と云うより商売になんかならないんだろうなと心配してしまいます。
ましてや1枚もののオリジナルプリントなんて意味判ンないですっていうひとがほとんどだろうしね。もー日本の家庭には掛け軸かけたりして住環境を心地よくするなんて習慣はとっくの昔に無くなっているからね。頭の悪いガキどもが壁や天井に貼ってるポスターなんてのは装飾じゃなくてヨクボーの対象だからね。これはもうなんたってしかたないな。コピー商品が横行する我が国でも大家の写真はン十万だけどそれとよく似たこれなら二万です、なんてことにならないのはどうやら市場のあまりの小ささゆえというとこなんだろうね。まーそれくらい写真ってのが商品として成立してないって云うのかなんというのか。
あと印刷メディアが写真だと思っている人、いるだろうしね。たしかに印刷メディアと云うのは写真の大きな可能性の一部分だったんでそこのところはいまを去ること七十年以上前にドイツの画廊のオヤジが書いてる通りだし(ちくま文芸文庫版の「写真小史」に併載されている当時(1928年)の文化人でもあり画廊店主であるカール・ニーレンドルフがこれまた当時の新進写真家のブロースフェルトの「芸術の原形」という写真集への序文)、わたしたちの考える写真のイメージといえばベンヤミンが 「写真小史」の冒頭で言及しているニエプス、ダケール、ナダールらの「写真の歴史の最初の10年間」のイメージをこえるものではないし、画廊のオヤジの云う印刷物と写真との親密な関係への暗示的言及はすでにもう現実になっているし印刷物が写真じゃないと云う理由はないのかもね。海外には写真集を出さない著明な写真家もいるようだけどモノとしての写真のオリジナリティはどこにある、なんてのは野暮な話なんですかね。